《吾輩は猫である》

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吾輩は猫である- 第63部分


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る。落雲館と云い、八っちゃんの御袋と云い、腕のきかぬ主人にとっては定めし苦手(にがて)であろう。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。

八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほど癇癪(かんしゃく)が起ったと見えて、たちまちがばと布団(ふとん)の上に起き直った。こうなると精神修養も八木独仙も何もあったものじゃない。起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引き掻(か)き廻す。一ヵ月も溜っているフケは遠懀Г胜㈩i筋(くびすじ)やら、寝巻の襟(えり)へ飛んでくる。非常な壮観である。髯(ひげ)はどうだと見るとこれはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。持主が怒(おこ)っているのに髯だけ落ちついていてはすまないとでも心得たものか、一本一本に癇癪(かんしゃく)を起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとてもなかなかの見物(みもの)である。昨日(きのう)は鏡の手前もある事だから、おとなしく独乙(ドイツ)皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目に帰って思い思いの出(い)で立(たち)に戻るのである。あたかも主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になると拭(ぬぐ)うがごとく奇麗に消え去って、生れついての野猪的(やちょてき)本領が直ちに全面を暴露し来(きた)るのと一般である。こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。広ければこそ金田君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。彼等が人間として通用する間は主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ端書(はがき)を飛ばして天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。

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十 … 4

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この時主人は、昨日(きのう)紹介した混沌(こんとん)たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って上下共各(おのおの)二枚の袋戸をはめたものである。下の方の戸棚は、布団(ふとん)の裾(すそ)とすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な腸(はらわた)があからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは活版摺(かっぱんずり)で、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでも捕(つらま)えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで怒(おこ)っていた主人が、突然この反古紙(ほごがみ)を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに最中(もなか)の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。主人が昔(むか)し去る所の御寺に下宿していた時、遥à栅工蓿┮唬à遥─戎兀àǎ─蚋簸皮颇幛辶摔い俊D幛胜嗓仍皮Δ猡韦显匆獾丐韦铯毪づ韦Δ沥扦猡盲趣庖獾丐韦铯毪い猡韦扦ⅳ毪ⅳ长文幛魅摔涡再|を見抜いたものと見えて自炊の鍋(なべ)をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼は嫌(きらい)にせよ全くそれに摺胜ぁV魅摔掀い郡辍⑿Δ盲郡辍㈡窑筏盲郡辍⒈筏盲郡耆艘槐钉猡工氪辘摔い氦欷忾Lく続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機(しんき)がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄(うす)っ片(ぺら)の、鼻(はな)っ張(ぱり)だけ強いだだっ子である。すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと刎(は)ね起きた主人が急に気をかえて袋戸(ふくろど)の腸を読みにかかるのももっともと云わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆(さ)か立(だ)ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監(かんこくとうかん)もこの時代から御布令(おふれ)の尻尾(しっぽ)を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿(おおくらきょう)とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣(きづかい)はない。下の方に大きな木板(もくばん)で汝はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行(ゆ)かないものだ。願(ねがわ)くばもう少し遠懀Г颏筏皮猡椁い郡ぁ_h懀Г颏筏胜堡欷惺聦gは決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構(らしききょこう)をもって良民を罪に陥(おとしい)れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂(きちがい)である。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県(おおいたけん)が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へ握(にぎ)り拳(こぶし)をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。

このあくびがまた鯨(くじら)の遠吠(とおぼえ)のようにすこぶる変眨驑O(きわ)めた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団(ふとん)をまくって夜着(よぎ)を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてが‘、げ博‘を持続している。やがて頭を分け終って、西洋手拭(てぬぐい)を肩へかけて、茶の間へ出御(しゅつぎょ)になると、超然として長火悚魏幛俗蛘激幛俊iL火悚仍皮Δ葯郏à堡浃─稳巛喣荆à袱绀辘螭猡─€~(あか)の総落(そうおと)しで、洗髪(あらいがみ)の姉御が立膝で、長煙管(ながぎせる)を粒à恧─慰F(ふち)へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥(くしゃみ)先生の長火悚酥沥盲皮蠜Qして、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人(しろうと)には見当(けんとう)のつかんくらい古雅なものである。長火悚鲜盲zんでてらてら光るところが身上(しんしょう)なのだが、この代物(しろもの)は欅か桜か桐(きり)か元来不明瞭な上に、ほとんど布巾(ふきん)をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事夥(おびただ)しい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買った覚(おぼえ)はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと糺(ただ)して見ると、何だかその辺が曖昧(あいまい)である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火悚蚝韦螝荬猡胜ⅳ膜こ证盲评搐皮筏蓼盲郡韦坤饯Δ馈I佟─郡沥瑦櫎い瑜Δ馈?激à毪趣郡沥瑦櫎い瑜Δ坤长螭适陇鲜篱gに往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠(かさ)に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙(くちばし)を容(い)るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火闶录颏猡盲浦魅摔四喟舾预ⅳ毪榷隙à工朐Uには行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。

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十 … 5


長火悚伟à饯校─岁嚾·盲啤⑹匙郡蚯挨丝兀à窑─à郡胫魅摔稳妞摔稀⑾瓤蹋à丹盲╇j巾(ぞうきん)で顔を洗った坊ばと御茶(おちゃ)の味噌の学校へ行くとん子と、お白粉罎(しろいびん)に指を突き込んだすん子が、すでに勢揃(せいぞろい)をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄(なんばんてつ)の刀の鍔(つば)のような輪廓(りんかく)を有している。すん子も妹だけに多少姉の面影(おもかげ)を存して琉球塗(りゅうきゅうぬり)の朱盆(しゅぼん)くらいな資格はある。ただ坊ばに至っては独(ひと)り異彩を放って、面長(おもなが)に出来上っている。但(ただ)し竪(たて)に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。いかに流行が変化し易(やす)くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の速(すみや)かなる事は禅寺(ぜんでら)の筍(たけのこ)が若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後(うし)ろから追手(おって)にせまられるような気がしてひやひやする。いかに空漠(くうばく)なる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入(い)らざる事を捏造(ねつぞう)して自(みずか)ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。

さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気を利(き)かして、食事のときには、三歳然たる小形の箸(はし)と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪(にく)い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄(がら)にもない官職に登りたがるものだが、あの性伲先长畏护袝r代から萌芽(ほうが)しているのである。その因(よ)って来(きた)るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や恕眨à螭趣Γ─前K(なお)せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。

坊ばは隣りから分捕(ぶんど)った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、し
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