《吾輩は猫である》

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吾輩は猫である- 第29部分


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はズ憨‘よりも見ともないと思う。第一天井から鼠(ねずみ)の糞(ふん)でも落ちた時危険である。

小供の方はと見るとこれも親に劣らぬ体(てい)たらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと云わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子はその復讐(ふくしゅう)に姉の腹の上に片足をあげて踏反(ふんぞ)り返っている。双方共寝た時の姿勢より九十度はたしかに廻転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平も云わずおとなしく熟睡している。

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五 … 2

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さすがに春の灯火(ともしび)は格別である。天真爛漫(らんまん)ながら無風流極まるこの光景の裏(うち)に良夜を惜しめとばかり床(ゆか)しげに輝やいて見える。もう何時(なんじ)だろうと室(へや)の中を見廻すと四隣はしんとしてただ聞えるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋(はぎし)りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると云われるといつでもこれを否定する女である。私は生れてから今日(こんにち)に至るまで歯軋りをした覚(おぼえ)はございませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒でございますとも云わず、ただそんな覚はございませんと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚はないに摺胜ぁ¥筏肥聦gは覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こう云う紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。――夜(よ)は大分更(だいぶふ)けたようだ。

台所の雨戸にトントンと二返ばかり軽く中(あた)った者がある。はてな今頃人の来るはずがない。大方例の鼠だろう、鼠なら捕(と)らん事に極めているから勝手にあばれるが宜(よろ)しい。――またトントンと中(あた)る。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。主人の内の鼠は、主人の出る学校の生徒のごとく日中(にっちゅう)でも夜中(やちゅう)でも乱暴狼藉(ろうぜき)の練修に余念なく、憫然(びんぜん)なる主人の夢を驚破(きょうは)するのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠懀Г工朐Uがない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなどは主人の寝室にまで闖入(ちんにゅう)して高からぬ主人の鼻の頭を囓(か)んで凱歌(がいか)を奏して引き上げたくらいの鼠にしてはあまり臆病すぎる。決して鼠ではない。今度はギ扔陸酩蛳陇樯悉爻证辽悉菠胍簸工搿⑼瑫rに腰障子を出来るだけ緩(ゆる)やかに、溝に添うて滑(すべ)らせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が案内も乞わず戸締(とじまり)を外(は)ずして御光来になるとすれば迷亭先生や鈴木君ではないに極(きま)っている。御高名だけはかねて承(うけたま)わっている泥棒陰士(どろぼういんし)ではないか知らん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔(そんがん)を拝したいものだ。陰士は今や勝手の上に大いなる泥足を上げて二足(ふたあし)ばかり進んだ模様である。三足目と思う頃揚板(あげいた)に蹶(つまず)いてか、ガタリと夜(よる)に響くような音を立てた。吾輩の背中(せなか)の毛が靴刷毛(くつばけ)で逆に擦(こ)すられたような心持がする。しばらくは足音もしない。細君を見ると未(ま)だ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑(とどん)している。主人は赤い本に拇指(おやゆび)を挟(はさ)まれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマチを擦(す)る音が聞える。陰士でも吾輩ほど夜陰に眼は利(き)かぬと見える。勝手がわるくて定めし不都合だろう。

この時吾輩は蹲踞(うずく)まりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音は遥à栅工蓿─我簸裙菠舜獋龋àà螭铮─爻訾俊j幨郡悉い瑜い钑鴶趣剡@入(はい)った。それぎり音も沙汰もない。

吾輩はこの間(ま)に早く主人夫婦を起してやりたいものだとようやく気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、一向(いっこう)要領を得ん考のみが頭の中に水車(みずぐるま)の勢で廻転するのみで、何等の分別も出ない。布団(ふとん)の裾(すそ)を啣(くわ)えて振って見たらと思って、二三度やって見たが少しも効用がない。冷たい鼻を睿Г瞬粒à梗─旮钉堡郡椁人激盲啤⒅魅摔晤啢蜗趣爻证盲菩肖盲郡椤⒅魅摔厦撙盲郡蓼蕖⑹证颏Δ螭妊婴肖筏啤⑽彷叅伪扦扭椁蚍瘢àぃ─浃仍皮Δ郅赏护wばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。此度(こんど)は仕方がないからにゃ摔悌‘と二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どう云うものかこの時ばかりは咽喉(のど)に物が痞(つか)えて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心(かんじん)の主人は覚(さ)める気色(けしき)もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと椽側を伝(つた)って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦(あき)らめて、遥à栅工蓿─攘欣睿à浃胜搐Δ辏─伍gにしばしの間身を忍ばせて動静を窺(うか)がう。

陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりと已(や)む。吾輩は息を凝(こ)らして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠を捕(と)る時は、こんな気分になれば訳はないのだ、魂(たましい)が両方の眼から飛び出しそうな勢(いきおい)である。陰士の御蔭で二度とない悟(さとり)を開いたのは実にありがたい。たちまち障子の桟(さん)の三つ目が雨に濡れたように真中だけ色が変る。それを透(すか)して薄紅(うすくれない)なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間(ま)に暗い中に消える。入れ代って何だか恐しく光るものが一つ、破れた孔(あな)の向側にあらわれる。疑いもなく陰士の眼である。妙な事にはその眼が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李の後(うしろ)に隠れていた吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こう睨(にら)まれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢出来んから行李の影から飛出そうと決心した時、寝室の障子がス让鳏い拼良妞亭筷幨郡膜い搜矍挨摔ⅳ椁铯欷俊

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五 … 3

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吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有する訳(わけ)であるが、その前ちょっと卑見を開陳(かいちん)してご高懀Г驘à铯氦椋─铯筏郡な陇ⅳ搿9糯紊瘠先侨埭瘸纾àⅳ─幛椁欷皮い搿¥长趣艘K教(ヤソきょう)の神は二十世紀の今日(こんにち)までもこの全智全能の面(めん)を被(かぶ)っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破(どうは)した者は天地開闢(てんちかいびゃく)以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更(まんざら)な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏(のうり)に叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に拢龝趣皮Δ猡韦摔悉饯瓮à辘让饔洡筏皮ⅳ毪饯Δ馈¥丹皮长稳碎gについて、人間自身が数千年来の観察を積んで、大(おおい)に玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それは外(ほか)でもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論極(きま)っている、大(おおき)さも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の伎倆(ぎりょう)に感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗(しょうこう)して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって推(お)せば、人間の製造を一手(いって)で受負(うけお)った神の手際(てぎわ)は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底(てい)の伎倆であるから、これを全能的伎倆と云っても差(さ)し支(つか)えないだろう。人間はこの点において大(おおい)に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から云えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から云うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと云うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子(しゃくし)も同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうてい旨(うま)く行かなくて出来るのも出来るのも作り損(そこ)ねてこの乱雑な状態に陥(おちい)ったものか、分らんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹(こんせき)とも判ぜらるるではないか。全能とも云えようが、無能と評したって差し支えはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時(いちじ)に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入(はい)らんのは気の毒な次第である。立場を換(か)えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人逆(のぼ)せ上がって、神に呑(の)まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚(もこう)を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分摺铯搪}母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅(そうふく)見せろと逼(せま)ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日(きのう)書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換(か)えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然模傚主義(もこうしゅぎ)で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母(うば)から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚(もこう)の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚(もこう)はかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう、悉皆(しっかい)焼印の御かめのごとく作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に今
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